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院長室のきのうきょうあした5

その5 追悼 北浦尚 様

2018年1月16日 北浦尚様は72歳でお父様の北浦貞夫様の待つくにへむらさき愛育園から旅立たれました。残念ながら生前お目にかかることはかないませんでしたが、全国重症心身障害児(者)を守る会(守る会)北浦雅子会長の愛息子として、種痘後脳炎の後遺症として重症心身障害を背負うことになった方として、また48歳になってはじめて絵筆を握って「なぐり描き」ができるひとであることがわかっただけでなく、多くの人びとの心に響く作品を描けるひとであることを知らしめた奇跡のひととしてのお名前はながく心に刻まれていました。
もし尚様がこの世に命をさずかっていなかったら、もし北浦貞夫様、雅子様ご夫妻の次男としてお生まれにならなかったら、もし北浦ご夫妻が小林堤樹先生と出会わなかったら、今日の「守る会」はなかったし、重症心身障害児・者のため医療や福祉の制度や機能が、十分とはいいえないにしても今日のような手厚さを期待できることはなかったはずです。私たち職員もこの都立東部療育センターという場で、ごいっしょに利用者のみなさまのための仕事をさせていただく機会もなかったのではないかと思います。
1月26日 品川区桐ヶ谷斎場で行われた告別式で、北浦尚様に初めてお目にかかりました。苦しむことなく、静かに眠るように亡くなられたという尚様は、たくさんの献花に囲まれたにこやかな遺影の前で、やさしいおこころをうつす表情のまま眠っていらっしゃいました。
北浦尚様のお生まれになった1946年当時、 生後7ヶ月で重症心身障害となられた方が72歳を迎えることは難しかったにちがいありませんが、わが子の病気と障害への苦悩の中で、北浦家の天使、北浦家の宝として大切に大切に育てられ、24歳で入所なさった板橋区のむらさき愛育園でも手厚いケアとスタッフの熱い思いを受けられたことが、大いなる命の力のひとつになっておられたのでしょう。最後の時を前に、お目にかかって尚様の笑顔は御家族だけでなく、多くの人々、むらさき愛育園のスタッフをも力づけてこられたということは容易に想像できることでした。
お兄様である北浦隆様が、出棺を前にして「尚は幼くして種痘後脳炎をわずらいましたが、守る会の活動の原動力となりました。あらためて大きな仕事をしたな、と心をうたれています」とご挨拶なさいました。ほんとうにその通りだと思いました。
重症心身障害児のお母様方が、この子を置いては死ねない、死ぬときはいっしょと思い詰めていらした時代を超えて、「親亡き後」を支えるためのシステムが、多少なりとも整えられてきているのは、北浦会長はじめとする「守る会」の方々のお力が大きいことはいうまでもありせん。

でも、あたりまえのことですが、北浦会長はとても悲しそうでした。告別式という、会長の至高の宝 とのお別れの場は、お声をおかけするのも、おそばで拝見するのも切ないものでしたが、「この子は重症心身障害児のためにうまれてきたの」と小さな声でおっしゃいました。私も小児科医としてこどもに先立たれた親御さんたちのはかりしれない悲痛に接するたびに、非力な思い、はかなさとともにいのちのあたたかさと力強さをも感じてきました。いくつになっても親や親、こどもはこども、かけがえのない愛情で結ばれたいのちのきずなというひとの世の真理にまた触れた思いでした。
北浦尚様のご冥福を祈り、北浦雅子会長とご家族の皆様が尚様を偲ぶ静かな時を持てますようにと願っております。私も北浦尚様を忘れずに思い続けられるひとであるようにと思っています。合掌

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